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死は悪いこと?死の「剥奪説」から考える死の善悪
1. はじめに
こんにちは。&for usのがくです。
今回は、死の「剥奪説」というものを取り上げながら、死がなぜ悪いものだと思われているのかについて考えていきます。
※本記事では「人生には生きる価値がある」「生きる価値がない」などの話ではなく、あくまで「死」そのものがどのような性質を持つのかを論じています。
死の「剥奪説(the deprivation theory)」とは、アメリカの哲学者トマス・ネーゲルが提唱した考え方です。複雑な考え方ですが、その考え方のコアになっているのは、死が悪いもの(有害)であるのは、死が我々から生の善き点を剥奪するからである、という点です。ネーゲルは以下のように主張します。
「死が悪であるのは、死のもつ積極的な特質によってではなく、死が奪い去るものの望ましさによってなのである」
ネーゲル(1989)『コウモリであるとはどのようなことか』p6
しかし、これだけ聞いても少し難しいかもしれません。なので、この剥奪説が誕生する前の考え方から見ていきましょう。
2. 死は悪いものでも良いものでもない(エピクロスの主張)
死が良いものなのか悪いものなのかという議論は、2000年以上前の古代の時代にまで遡ります。古代ギリシャの哲学者エピクロスは、そもそも死が悪いものではないと主張しました。エピクロスは次のように述べます。
「死は、もろもろの悪いもののうちで最も恐ろしいものとされているが、じつはわれわれにとって何ものでもないのである。なぜかといえば、われわれが存するかぎり、死は現に存せず、死が現に存するときには、もはやわれわれは存しないからである。そこで、死は、生きているものにも、すでに死んだものにも、かかわりがない。なぜなら、生きているもののところには、死は現に存しないのであり、他方、死んだものはもはや存しないからである」
エピクロス(1959)『エピクロス 教説と手紙』p67
なんだか哲学的な言い回しですが、わかりやすく言い換えると「私たちが生きている間には死という出来事はまだ起こっていないし、死という出来事が起こったとしてもそのときにはすでに私たちの意識はないので、死を知覚することができない。よって死は良いものでも悪いものでも怖いものでも何でもない無関係の事柄である」くらいの意味でしょうか。つまり、自分自身の死(一人称の死)は経験できないもの(不可知)なので、無害であり、恐怖の対象にはならないということをエピクロスは主張しています(注1)(注2)。
エピクロスの主張は一見すると説得力があるように思われます。現に今でもエピクロスの主張を用いる学者も多くいます。
しかし、極端なことを言えば、エピクロスの説では殺人で人を死に至らしめたとしても、その死者は害を受けていないことになるので、殺人が犯罪ではないと主張することもできます。また、死刑もその犯罪者に対して何も害を与えることができないため、刑罰として成り立たなくなってしまいます。ですが、多くの人が殺人は犯罪だと考えるし、死刑も(その是非は倫理的立場から議論があるものの)刑罰として考えています。このように、エピクロスの主張では、私たちの直感に反することを正しいといえるようになってしまうのです。
3. 死は、もし死ななければ得られた益を奪うものであるので悪いものである(剥奪説)
そんななか、新しく出てきた考え方が「剥奪説」です。この説の提唱者であるトマス・ネーゲルは、見出しにも書いてあるとおり死が悪いと考えられる根拠として、可能性の剥奪を指摘しています。
例えば、恋人との結婚を控えたまま若くして死んでしまったひとのことを考えてみましょう。生きていれば結婚をして幸せな家庭を築き、幸せな人生を送っていたかもしれません。しかし、死はそうした未来の可能性を奪ってしまいます。死が悪いという主張は、このように可能性の剥奪から基礎づけることができる、というのがネーゲルの考え方です。
人生のなかでは、生きていると良いことも悪いことも起こります。恵まれている人は常に良いことが起こっているかもしれませんし、不幸な人は悪いことばかりが続いているかもしれませんが、少なくとも“良いことが起こる可能性”というのは誰もが持ち合わせています。ネーゲルは、死がこの可能性をすべて根こそぎ奪ってしまうということを根拠に、死が悪(有害)であると主張しているのです。
ここでひとつの疑問が浮かびます。人生において良いことも悪いことも起こる可能性があり、人によっては悪いことのほうが多く起こるのだとすれば、やっぱり死はある人にとっては良いものになりうるのではないか? という疑問です。
しかし、ネーゲルがここで「良いこと」という際には、体験すること自体が価値のあること、つまり良いことであると捉えられています。つまり、良い体験も悪い体験も、ネーゲルにとってはどちらも価値のあること=「良いこと」であるということです。なぜなら、体験をしなければそれは無であり、無価値であるのであれば体験をすること自体が価値を持つようになるからである、とネーゲルは説明します。
まとめると、私たちは生きているからこそ(存在しているからこそ)良いことも悪いことも受け止めることができるのであり、死はそうした受け止めを可能にする条件としての生(存在)を奪うので、悪いのである、というのがネーゲルの主張ということになります。
こうしたネーゲルの剥奪説は、これまで死が悪いことであるということを基礎づけられていなかったこれまでの議論に光を当てるものになりました。
4. 剥奪説への批判
剥奪説は一定の確からしさを持っていますが、この説もまた完璧ではありません。死にもさまざまなパターンがあり、それら全てを剥奪説で説明することは難しいのです。例えば、100歳を越える長寿の方が亡くなったときと、20代の若者が亡くなったときでは、剥奪される未来の可能性には差があるのではないかと言われています。もしくは、長年不治の病に悩まされ、生きていること自体に価値を感じておらず安楽死を希望している患者が亡くなったとき、その死は良いことを剥奪しているといえるのか、という批判もあります。
また、剥奪説への別の角度からの批判として、そもそも「誰の」益が剥奪されているのか、という指摘もあります。エピクロスが主張するように、亡くなった人は何かを考え、感じる主体ではなくなるのであれば、剥奪されたと考え、感じる人は一体誰なのか?そんなパラドックスに陥ってしまいます。
ネーゲルはこのパラドックスに対しては、例を出して反論しています。例えば本人がいないところで悪口を言われていたとします。そしてその悪口は本人に一度も届かないものとします。この場合、結果として悪口は本人に対して不快な経験を与えている行為ではないといえますが、では悪口という行為自体は悪くないといえるのでしょうか。ネーゲルはこれを、本人には経験されることはないが、行為自体が悪いことであると述べます。そして死も同じように、本人に経験されることがないとしても、悪いものとして考えうると主張するのです。
ネーゲルの反論が正当なものなのかということは、いまだに哲学者らによって議論されています。しかし、今まで死が悪いことであるという考えを直観以外で説明できなかったなかで、ネーゲルの発想はより豊かな議論を生むきっかけになったことは確かといえるでしょう。
5. おわりに
これまでエピクロスによる「死が無害である」という主張と、ネーゲルによる「死が有害である」という主張をそれぞれ見てきました。この議論は未だに決着がついておらず、長きに渡って議論が繰り返されています。当たり前のように死が悪いもの、怖いものと考えるのではなく、様々な角度から死を捉えようと考えるきっかけとして、剥奪説は十分に役立つ考え方だと思います。ぜひ、みなさんが白熱した議論をするためのきっかけとなれば幸いです。
[注]
1) ちなみにここでエピクロスが焦点を当てているのはあくまで「死(death)」そのものであって、「死にゆくこと(dying)」ではないことには注意が必要です。つまり、病気で死にゆくプロセスの中では苦痛がともなう可能性もありますし、それを怖いと感じることはここでは議論されていません。
2) また、このように死=全て終わりという前提に立つことを「終焉テーゼ(termination thesis)」と言ったりします。その前提に立たずに、死んだら生まれ変わるという考えや、魂となって永久に生き続けるという考えを持っている人もいますし、そうした考えに即せば、そもそもこうした議論は生じません。
参考文献
一ノ瀬正樹 2019;「死の害についての『対称性議論』をめぐって――因果概念に照らしつつ」『武蔵野大学教養教育リサーチセンター紀要』9, 武蔵野大学教養教育リサーチセンター.
エピクロス 1959; 『エピクロス――教説と手紙』,出隆・岩崎允胤訳,岩波文庫.
ケーガン,シェリー 2018; 『「死」とは何か――イェール大学で23年連続の人気講義』,柴田裕之訳,文響社.
佐藤啓介 2019; 「〈死者の尊厳〉の根拠――下からの死者倫理の試み」『宗教哲学研究』36, 宗教哲学研究.
谷川卓 2018;「剥奪説の再検討のためのノート」『千葉大学大学院人文公共学府研究プロジェクト報告書』331, 千葉大学大学院人文公共学府.
ネーゲル,トマス 1989; 『コウモリであるとはどのようなことか』,永井均訳,勁草書房.
三浦要 2014;「死の害悪に関する一考察」『哲学・人間学論叢』5, 金沢大学哲学・人間学研究会.
吉沢文武 2011;「死によって誰が害を被るのか――剥奪説を批判する」『哲学の探求』36, 哲学若手研究者フォーラム.