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【用語解説】死のタブー化論

はじめに

こんにちは。&for usのがくです。
今回は、死生学の基礎的なテーマである「死のタブー化論」についてご紹介します。
そもそも死のタブー化論とは、現代社会が死をタブー視し、日常から遠ざけて見えないようにしているという考え方のこと。こうした考え方は死生学において古典的に議論されてきたトピックであり、特に有名なふたりの論者の名が挙げられます。まずはそのうちのひとりであるジェフリー・ゴーラーの「死のポルノグラフィー論」に目を向けてみましょう。

「死のポルノグラフィー論」とは

イギリスの社会人類学者であるゴーラーは死のポルノグラフィー論を展開し、一方では死が覆い隠されていきながら、もう一方では暴力的な死がメディアを通じて広がっていると主張しました。
ゴーラーによると、ポルノグラフィーとは「タブー視された行動を描写して、幻想・妄想を生み出そうとする」(ゴーラー 1986 p.204)ことを指しています。
つまりタブーとみなされている”性”を描写することで(性的)興奮が呼び起こされるという意味のポルノグラフィーという現象が、”死”の描写においてもいえるのではないかという主張です。例えば戦争小説やSF映画、ホラー映画などの中で何度も出てくる死の描写が、必要以上に暴力的に描かれているものが該当します。ゴーラーは、自分や身近な人の死がタブー視されていく一方で、メディア空間において暴力的なまでにあらわれる死のイメージを指摘し、死が娯楽のための道具になってしまっていることを批判しました(注1)。

このような死のポルノグラフィー論に関してはさまざまな批判や議論が展開されていきましたが、死のタブー化という現象を浮かび上がらせたことは確かです。また、現代日本社会に生きる我々も、SNSやYoutube動画、アニメや映画などでこのような死のポルノグラフィーと呼べるものを感じることがあるのではないでしょうか?
このゴーラーの論を元に、死の歴史的変遷を研究したもうひとりの古典的死のタブー化論者を紹介しましょう。

死の歴史的変遷

次に、死のタブー化論のもうひとりの古典的論者として挙げられる、歴史学者のフィリップ・アリエスについてご紹介します。
アリエスはゴーラーが訴えた死のポルノグラフィー論を踏まえ、歴史のなかで死がどのようにタブー視されるに至ったのか、ヨーロッパを中心にその変遷について考察し、死への見方を5つの時代的区分に分けました。

中世前期の死→飼いならされた死
中世後期の死→己の死
ルネサンス期の死→遠くて近い死
近代の死→汝の死
現代の死→タブー視される死(倒立した死)

細かい時代区分の変化についてはここでは触れませんが、大きな流れとしては「飼いならされた死」であった昔から、「タブー視される死」である現代への変貌がアリエスの主張でした。ここでいう「飼いならされた死」とは、野良犬を手なづけて飼い犬にするように、人びとが死を非常に身近なものとして日常生活の中で受け入れていたことを指しています。
アリエスは例として「イノサン墓地」というものを出しています。イノサン墓地は現在のパリ中心部に位置し、中世から18世紀頃まで実際に使用されていました。教会の敷地であり、死者のための墓地でありながら、生者のための集会所や散歩コース、市場、遊びの場、はたまたロマンチックな逢い引きの場としてさえも使われていたとアリエスは言います。今の感覚ではなかなか理解しがたい光景ですね。

死のタブー化の要因

アリエスは、そうした過去の死の身近さを引き合いに、現代における死のタブー化を指摘しました。こうしたタブー化論は、現代における医療技術の発展や家族形態の変化、都市化による人口流動性の増加などが要因であると説明することが一般的です。つまり、高度な医療を施す場所=病院での死が増えることで死が隠されていったり、核家族化が進むことによって祖父母の介護、死別と関わることが少なくなったり、人びとが同じ土地に住み着かなくなったことによる地域共同体での葬送儀礼が減っていったりすることが、論拠として挙げられます。

おわりに

これまで見てきた内容は、あくまでヨーロッパを中心に研究されてきた事柄。死のタブー化という議論は、死生学や医学、看護学などの中で当然のこととして語られるようになるまで市民権を得ましたが、一方では「タブー化はそもそも無かったのではないか」、「昔を美化しているだけではないか」、というような批判がなされています(注2)。少なくとも現代の日本においては、体感ベースでは死について日常的に話せる機会はさほど多くなく、まだまだ死がタブーではないと言えない状況にあると思われます。そんな中、昨今広がりをみせている終活やデスカフェ、ACPなどは、死のタブー視への挑戦と捉えることができるかもしれません。みなさんも、死=タブーであるということが当たり前ではなく、歴史的、文化的に作られてきた可能性を視野に入れてみると、違ったものの見方ができるかもしれませんね。

[注]
1) これはいわゆる1人称、2人称の死のタブー化と3人称の死の氾濫と説明されます。
2) 詳しく知りたい方は、トニー・ウォルター(2020)やノルベルト・エリアス(1990)、澤井敦(2005)などの議論をご参照ください。

参考文献
アリエス,フィリップ 1983,『死と歴史―西欧中世から現代へ』伊藤晃・成瀬駒男訳,みすず書房.
アリエス,フィリップ 1990,『死を前にした人間』成瀬駒男訳,みすず書房.
ウォルター,トニー 2020,『いま死の意味とは』,堀江宗正訳,岩波書店.
エリアス,ノルベルト 1990,『死にゆく者の孤独』,中居実訳,法政大学出版局.
澤井敦,2005,『死と死別の社会学――社会理論からの接近』青弓社.
ゴーラー,ジェフリー 1986,『死と悲しみの社会学』,宇都宮輝夫訳,ヨルダン社.
山崎浩司,2014,「死生学の理論と展望」石丸昌彦編『死生学入門』放送大学教育振興会,239-253.

記事

市川岳

市川岳

アンドフォーアス株式会社

国際基督教大学教養学部アーツサイエンス学科哲学専攻卒業後、葬儀社(むすびす(株)旧:アーバンフューネスコーポレーション)へ入社。エンディングプランナーとして、年間約200家族との打合せ・葬儀を執り行うとともに、死生学カフェや死の体験旅行など様々なイベント企画を通じて「死へのタブー視」と向き合っている。 現在は上智大学大学院実践宗教学研究科死生学専攻の博士課程前期1年目で、死とテクノロジーが合わさった「デステック」における倫理的問題のアセスメントを中心に研究を進めている。

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