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中絶が違法?アメリカの最高裁判決から考える、人間はいつから人間なのか
1 はじめに
こんにちは。&for usのがくです。
2022年6月のニュースにこんなものがありました。
「米連邦最高裁 “中絶は女性の権利”だとした49年前の判断覆す」
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220625/k10013687721000.html
(出典:NHK「米連邦最高裁 “中絶は女性の権利“だとした49年前の判断覆す | NHK」)
このニュースはアメリカ社会に大きな震撼をもたらすものでしたが、そもそもアメリカ及び世界において、中絶がどのように捉えられてきたのかという歴史的な視点なしには理解することが難しいように感じられます。
本記事では、このニュースがどのような歴史的経緯を経ての議論なのかということを、なるべく平易に解説していきます。
※本記事は中絶の議論について中立的に紹介することを目的としています。ご自身や周りの方々の中で、中絶またはそれに相当するようなことを経験されたことのある方にとっては内容が不快な場合がございます。無理のないように読み進めてください。
2 中絶とは
中絶という言葉は、「途中でやめる」ということを表す語でもあり、また自然妊娠中絶(=流産)と分けて使う場合もありますが、ほとんどの場合人工妊娠中絶のことを指します。
本記事では以下、特別な説明のない場合においては人工妊娠中絶のことを「中絶」と表現します。
日本における中絶は、母体保護法第2条第2項で以下のように定義されています。
胎児が、母体外において、生命を保続することのできない時期に、人工的に、胎児及びその付属物を母体外に排出すること
厚生労働省HPより引用
ここでいう付属物とは、胎盤・卵膜・暖帯・羊水などのことを指します。
平たく言うと、お腹のなかの胎児を人工的に外に出し、妊娠状態を中断、結果的に胎児を死に至らしめることです。
また、母体保護法の第14条第1項では、①身体的または経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれのあるもの、②暴行もしくは脅迫によって姦淫されて妊娠したもの のふたつの場合において、本人及び配偶者の同意(注1)を得て、中絶を行うことができると記されています。
つまり、現代の日本においては、特定の条件・場合によって中絶が認められていることになります。
後ほど詳しく見ていきますが、この中絶という行為に関してさまざまなひとが個々の立場から意見を表明しています。
次章では、まずこれまでの歴史的経緯を概観してみましょう。
3 中絶の歴史
日本における中絶は、平安時代の『今昔物語集』のなかにも記述があり、大衆で広く行われたのは江戸時代になってからとされています。以降、富国強兵政策の一環として明治時代に制定された「堕胎罪」から、中絶に関しての公的なルールができるようになりました。そして戦後、1948年には現在の「母体保護法」の前身である「優生保護法」が施行され、妊娠中絶が法的に認められるようになったのです。世界的にみると、日本は早い段階で一定条件における中絶の法的自由化が認められ、今もなお中絶に対しては比較的寛容な国だといえるでしょう。
日本における中絶が許容される時期に関しては、時代とともに変化してきました。前述の優生保護法が施行されてから1976年までは28週未満が許容範囲、1976年から1990年までは24週未満、1990年から2022年現在までは22週未満となっています。
一方で、世界の状況はどうなのでしょうか。
アメリカの場合、本記事のはじめにも取り上げた、1973年のロー対ウェイド判決(注2)をきっかけに、多くの州で中絶が可能になっていました(注3)。しかし、今回その判決が覆されたため、現在では認められている州でも認められなくなる可能性が高いのです。世界のなかでもアメリカの影響力は多大で、この判決の覆りは世界にも影響をもたらすという意味で注目すべきトピックだと言えるでしょう。
イギリスの場合、1968年にできた人工妊娠中絶法というものが大きな影響力をもち、ほとんどの地域で条件を満たした上での中絶は可能でした。北部アイルランドのみは、長年にわたり中絶を禁じてきましたが、2019年に中絶が認められるようになりました。
その他、国々でタイミングは異なりますが、多くの国で中絶は特定の条件下において認められています。
4 出生前診断と着床前診断
続いて、中絶の論点を話す上で重要な概念である出生前診断、着床前診断ということを簡単に説明します。
出生前診断とは、「出生前に胎児の状態(well–being:胎児の健康状態を指す。胎児の生死、発育、先天異常の有無などが含まれる)を診断する」(注4)ことで、よくイメージする超音波検査や、染色体疾患の検査などがあります。出生前診断の技術自体は19世紀初頭、レントゲンの技術が生まれてから胎児の骨格を描写するなどで使用されていましたが、1970年代に超音波検査の技術が生まれてからさらに広く受け入れられてきました。また近年では、新型出生前診断という母体の血液から遺伝子疾患の検査ができる技術なども開発が進んでいます(注5)。
出生前診断と混同してしまいがちな概念に、着床前診断があります。着床前診断とは、受精卵が細胞分裂し胚となり、子宮へ着床する前に出生前診断のような遺伝子疾患の検査をすることです。出生前診断は受精卵が子宮へ着床し、最低でも妊娠10週かかってからの検査になりますが、着床前診断はもっと早くに分かるのです。ただし、着床前診断は単純なタイミングの違いだけではなく、不妊治療の一環として行われるという点でも異なります。そのため、日本においては日本産科婦人科学会の厳しい管理のもと、一定の条件をみたす場合にのみ着床前診断が認められています。
このような厳しい管理がなされる理由に、出生前診断も着床前診断も、診断の結果を踏まえて中絶をするかしないかの判断をするという“命の選別(優生思想)”につながる危険性があるという考えがあります。中絶問題を考えるときに、この出生前診断、着床前診断というのは必須概念ということです。
5 中絶の論点
前述の通り、中絶は「多くの国で」認められていますが、一部の国では中絶はいかなる状況においても認められていません(注6)。では、なぜそもそも認めるか、認めないかということが論点になるのでしょうか。本章では、中絶に関してどのような意見があるのか、アメリカの例を挙げながら説明していきます。
・中絶の権利擁護派(プロチョイス)
中絶の権利擁護派の人びとをプロチョイス(注7)と言います。つまり、胎児の生命と母体の選択権を比較した場合に「母体の選択権」を優先する立場のことです。アメリカにおけるリベラル派政党やそのサポーター、女性の権利運動などに携わる人びとなどがこのプロチョイスの立場をとることが多いです。大きなトピックは、胎児が人権を備えた人間であるか否かという論点です。また、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教などの宗教的禁忌と政教分離の問題においても、規範的な世界宗教らと戦っています。フェミニズム的観点からは、中絶の禁止は男性社会による女性に対する出産の強制であり、一方的に女性の自己決定権を奪い支配する構造的女性差別の一環であるとする見方があります。
・中絶の権利否定派(プロライフ)
一方で、中絶の権利否定派=プロライフと呼ばれる人びとは、中絶の権利を擁護せず、それよりも胎児の生命を尊重する立場に立っています。極端な話をすれば、カトリック教会などいくつかの団体は中絶を殺人とみなしてさえいる、ということです。ただし、状況次第で中絶を認める考え方もあれば、自然流産さえも乳児や幼児の死と同じように扱う考えも存在します。また、先程挙げたような宗教的禁忌の観点からこの立場を取る人も多いです。とくに厳格なキリスト教カトリックが根ざした国では、受精したその時からが命の始まりであるとする立場のため、いかなる条件下でも中絶を認めないということが起こり得るのです。
こうした意見の対立のなかで出されたのが、1973年のロー対ウェイド判決でした。これまで書かれた多くの中絶にまつわる本のなかで、この判決は度たび引き合いに出されてきました。それほどまでに影響力の大きかったこの判決が49年ぶりに反転したということが、今回のニュースが大きく取り上げられた理由なのです。
5 まとめ
中絶の概要や歴史、出生前診断や着床前診断、そして中絶に関する賛成意見、反対意見をできる限り客観的に記述しました。
もちろん書ききれていない部分もたくさんあるほどに、奥の深いテーマだと思います。
ぜひみなさんも、今回のニュース、そして本記事を機に、ご自身がどのような考えを持っているのかを考え直してみてはいかがでしょうか。
[注]
1)母体保護法第14条第2項では、配偶者が知れないとき、もしくはその意思を表示することができないとき又は妊娠後に配偶者が亡くなったときには本人の同意だけで足りるとしています。
2) ロウ判決、ロー対ウェイド事件、ローvsウェイド裁判など、様々な表記があるが、本論文では引用箇所などを除いて「ロー対ウェイド判決」という表記を採用します。
3) 前提として、アメリカでは中絶に関して州のルール(州法)に則り、各州が可否を決めています。アメリカの法システムについては説明を割愛させていただきます。
4)佐藤孝道『出生前診断』(1999)より引用
5) 日進月歩の技術ではありますが、記事執筆時点では新型出生前診断も先天性の遺伝子疾患を100%確定的に検査することはできません。確定、非確定検査の詳細は割愛させていただきます。
6) 2022年7月現在で完全に中絶を違法としているのは、ドミニカ共和国、ホンジュラス、マルタ、ニカラグア、バチカンが挙げられます。
7) ここでいう「プロ」という語は、プロフェッショナルという意味ではなく、ラテン語で「賛成」という意味を表します。つまりプロチョイスは女性の選択権に賛成、プロライフは胎児の権利に賛成ということです。
参考文献
浅井篤 2002;「人工妊娠中絶と重度障害新生児に対する医療」『医療倫理』,浅井篤・大西基喜・大西香代子・服部健司・赤林朗編,勁草書房
今井道夫, 1999;『生命倫理学入門』,産業図書株式会社
香川知晶 1995;「人工妊娠中絶」『バイオエシックス入門』,今井道夫・香川知晶編,東信堂
佐藤孝道, 1999;『出生前診断』,有斐閣