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遺影とイエーイから見る死後写真の謎

こんにちは。&for usのがくです。

SNSを見ていると、ご遺体と写真を撮る様子をTwitterやTiktokなどにアップし、度々炎上している場面をよく見かけます。炎上する際に見られるコメントとしては、「不謹慎だ」、「死んだ人を自己承認の道具に使うな」などという言葉が並んでいます。

SNSを中心としたコミュニケーションのなかで、こうした炎上は今後も出てくると思われます。しかし、本当にこれらは不謹慎な行為なのでしょうか? こうした行為は歴史などをひも解いたときに、どのように考えることができるのでしょうか?

今回は、死後写真というものを紹介しながら、この炎上の内情を考えていきます。

死後写真(ポストモーテムフォトグラフィー)とは

実は、死後にご遺体と写真を撮ること自体は特殊なことではなく、海外ではむしろそうすることが流行っていた国もありました。
例えば、19世紀にはイギリスを中心としたヨーロッパで死後写真(注1)と呼ばれる遺体との記念撮影が流行していました。

 まるで生きているかのような死後写真(撮影者:Boatswain88)

写真自体は1820年代から徐々に技術が浸透、発展していったものであり、手軽なものではありませんでしたが、死がタブーではなかった時代であったことも相まって、さまざまな工夫が施されて死後写真が撮影されました。目を開けているように見える写真や、まるで寝ているように見える写真、家族みんなで囲っている写真や、立っているように見える写真まであったそうです。

亡くなった娘との最期の家族写真(撮影者不明)

19世紀前半は乳児の死亡率が高かったことも相まって、子どもの死後写真に重きが置かれており、19世紀後半から自然な姿で映し出すことが重視されるようになりました。この時代は産業革命とその後の時代であり、ひとつの集落に暮らしていた人びとが都市に集まるようになった時代でもあります。そのような人口移動が起こると、死別の瞬間に立ち会えない人が多くなります。そうした人にとって、死の瞬間を画像で記録できるということは魅力的に思えたのかもしれません。

若き少女の死後写真(撮影者:Ole Tobias Olsen)

その後20世紀に入ると、医療技術の発展や家族形態の変化により、死がタブーになることによって、死後写真というものは表舞台からは消えるようになります。しかしアメリカ合衆国など一部では、メディアでは取り上げられないものの、特に移民を中心に内々で広まっていたといわれています。
(参考記事:【用語解説】死のタブー化論

なぜ「不謹慎」と言われるのか

表舞台からは姿を消していた死後写真ですが、昨今のSNSの興隆により少しずつ見受けられるようになってきたように思います。しかし、その多くは炎上という形で、マイナスなイメージを持って取り上げられます。「不謹慎だ」「故人への冒涜である」「死んだ人を自己承認の道具に使うな」というようなコメントは、なぜ起こるのでしょうか?

これに関しては、いまだに決定的な理論は無いものの、いくつかの説が考えられます。そもそも時代変遷的に死がタブー化していったということもいえると思いますが、今回はそれ以外の可能性をいくつか紹介します。

1つに、遺体を含む死は”ケガレ ”(注2)とされるからというものがあります。ケガレとは、清浄ではなく汚れている状態のことを指します。日本において、とくに出産や月経、死などがケガレとして扱われており (注3)、古来の葬儀のもととなっている殯(もがり)という儀式も死へのケガレ観念から来ていると考えている人もいます (注4)。1970年頃から、様々な文化で見られるケガレ観念に注目が集まり、文化人類学、宗教学、民俗学を中心に学問的に研究されるようになりました。なぜ死がケガレとされるかについてはさまざまな議論がありますが、ひとつには感染症対策としての文化的機能と説明できるでしょう。

このように、死はケガレとして扱われているため、そんなケガレを人に見せるものではない = 不謹慎であるという構図になっていると説明できるかもしれません。

次に、死者への倫理的規範の基準があいまいであるからということが考えられます。現代に生きる私たちは、死者は大切にするべきであるという、ある程度の共通認識を持っているように思われます。しかし、ある程度といってもそれはどの程度なのか、という明確な基準があるわけではありません。炎上している例を見ても、「不謹慎」というコメントがある一方で、「亡くなった人も喜んでいるね」などといった好意的なコメントも多く散見されます。
このように、亡くなった方をどう捉えていいのか分からないという、一種の現代日本人の死生観のようなあいまいさが、炎上の火種になっているのかもしれません。

最後に、昔からある死後写真と決定的に違う点として、炎上している死後写真がSNSという不特定多数が閲覧可能な媒体にアップされていることが指摘できます。かつてはコミュニティー内において死後写真を共有することが許容されていた時代もありましたが、それはあくまで地域でのみのものでした。しかし、SNSはネットを介して不特定多数にまで拡散されてしまう可能性があります。

芸能人や著名人の訃報の折に、SNS上で故人を追悼するということは見たことがある人も多いと思いますが、それはあくまで文字による追悼や、生前の写真などが一般的です。これは、死のタブー視にも関連しており、核家族化や医療による分断などの影響により、死にゆく姿は家族だけのものであるという通念があるとも考えられます。

このように、死者の写真はごく近しい人のみが知るべきだ、と考えている人が多く、それゆえにSNSに死後写真を載せる=承認欲求とみなされているのかもしれません。

おわりに

これまで、死後写真というものと、それがなぜ炎上するのかについて、その可能性を紹介しました。死後写真そのものは受け入れられていたという過去もあり、必ずしも不謹慎であるとはいえないのかもしれません。ただし、現代社会におけるSNSを通しての死後写真はまだ新しい領域であり、日々形も変わりつつあるため、これからも研究が進んでいく分野でしょう (注5)。Facebookの追悼アカウントをはじめSNSを使ったメモリアル文化が動き始めており、これからの時代に考えなければいけない課題のひとつとなっています。

[注]
1)ポストモーテムフォトグラフィーとカタカナで呼ばれることもあります。
2)穢れやケガレなど表記は様々ですが、本記事ではケガレと表記を統一します。
3)とくに死に対してのケガレのことを死穢(しえ)といいます。
4)なお、たまにケガレは神道の考え方と説明されたりもしますが、仏教やキリスト教を含む諸宗教で似たようなものは見られます。
5)死後写真自体はグリーフケア(参考記事:【用語解説】「グリーフケア」)の観点から再度注目されているという研究もあります。

参考文献
郭軼佳,2019「写真の本質――写真の何を人間は礼拝するのか?」『千葉大学人文公共学研究論集』38: 32-47.
関根康正・新谷尚紀編,2007,『排除する社会・受容する社会――現代ケガレ論』吉川弘文館.
浜本満・浜本まり子編,1994,『人類学のコモンセンス――文化人類学入門』学術図書出版社.
服藤早苗ほか編,2005,『ケガレの文化史――物語・ジェンダー・儀礼』森話社.
ダグラス,メアリ 2009; 『汚穢と禁忌』,塚本 利明訳,筑摩書房.
リーチ,エドモンド 1981; 『文化とコミュニケーション』, 青木保・宮坂敬三訳,紀伊國屋書店.
Hilliker, Laurel, 2006, ”Letting Go While Holding On: Postmortem Photography as an Aid in the Grieving Process,” Illness, Crisis & Loss, 14(3): 245–269.

記事

市川岳

市川岳

アンドフォーアス株式会社

国際基督教大学教養学部アーツサイエンス学科哲学専攻卒業後、葬儀社(むすびす(株)旧:アーバンフューネスコーポレーション)へ入社。エンディングプランナーとして、年間約200家族との打合せ・葬儀を執り行うとともに、死生学カフェや死の体験旅行など様々なイベント企画を通じて「死へのタブー視」と向き合っている。 現在は上智大学大学院実践宗教学研究科死生学専攻の博士課程前期1年目で、死とテクノロジーが合わさった「デステック」における倫理的問題のアセスメントを中心に研究を進めている。

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